ケシは、背中と素足の裏を柔らかい内側に押し当てた状態で、アルコン内に横たわった。指示された通り、あらゆる思考を頭から追い出そうとしたが、到底できそうになかった。
その代わりに、再び荒くなってきた呼吸に集中することにした。
──吸って……吐いて……吸って……吐いて……
左腕を掴まれた感覚があり、その後、針が差し込まれた。アカシが新たに点滴の針を挿入したのだ。
「眠りにつくような感覚になるだろう」
「何をすべきか、まだ分かっていないのですが」
「大丈夫、我々に任せて。中に入ったらちゃんと説明するよ」
「どうやって?」
ケシがアカシの目を見つめると、頭の中で声が響いた。
【こうやって】
首筋の毛が逆立った。
耳で聞く時のような明瞭さはない。かすれ、歪み、焼け焦げたような音。まるでどこか深く、遠い所から聞こえる霊的な信号のようだった。
顔がこわばっていたのだろう、肩をポンと叩かれた。アカシは再び、今度は口を通して話し始めた。
「リラックスして。 君の仕事はオルター・エゴをコントロールすることだけだ」
──吸って。吐いて。
ユキの声が加わった。
「ドクター・アカシ。N1で安定し、バイタルサインも全て正常です」
アカシは視線を外さずに続けた。
「免疫システムが異物を拒むように、相手は君に抵抗するだろう。コントロールを保つには絶え間ない駆け引きが必要となる。だが、いったんフロー状態に達すれば、その魂全体、つまり知識、記憶、能力など、すべてにアクセスできるようになる」
ケシは耳を傾け、注意を払おうとしたが、話の内容が全く理解できなかった。
すると不気味な音が鳴り響き、その後、頭上に光が満ちた。回転する虹色の光がアルコンの内部で屈折し、ケシの黒いガウンに降り注いだ。
「N2!ドクター・アカシ、彼のエゴ・シグネチャーを捉えました」
──僕のなんだって?
──吸って。吐いて。
アカシがユキに向かってうなずいた。アルコンの波打つような唸り声は次第に高まり、ますます大きくなってゆく。ケシは司令室の大部分をまだなんとか見ることができた。レンは数メートル離れた場所に立ち、ケシには見えない何かに気を取られていた。ケシの視線はあちこちをさまよった後、再び点滴に戻った。
チューブを伝って腕へと流れ込む謎の液体を眺めていると、寂しさがじわじわと込み上げてきた。
ドーン。ドーン。
突然、まるでアルコン内でポップコーンが弾けるような鈍く速いドンドンという音がして、ケシを驚かせた。不規則なひとつひとつの鼓動が、ヘッドレストの振動を通して感じられた。
ドードーン。ドーン。
「今のは何だ?」
ケシは頭を向けようとしたが、体の筋肉がもはや反応しない。首がだらりと横へ傾いた。
「N3!」
「ユキ、今回は私が担当する」
「助かります、ドクター!アルコン、完全同期済み!」
アカシがレンに向かって頷いた。
「準備が整った。合図を」
レンは頷き返し、メインホロディスプレイに向き直った。
「よし!ミッション開始!」
そして大げさに右腕を振りかざし、横向きに敬礼すると、二本の指を立てた。
「シグナル、クリア!」
「はい、司令官!ID移植、開始!」
ケシは瞳に恐怖を浮かべてアカシを見つめた。
「ちょっと待って。もしコントロールを失ったら?相手の中にいる間に何かが起きたら?」
明石は首をかしげた。焦点が合わず、その姿がボケたりはっきりしたりしている。
「自分を信じてみるといいと思うよ」
アカシは軽く肩をすくめると、視界から消えていった。
──吐いて……吸って……
ケシは息を吸い込んだが、空気が入ってこなかった。
待て。今まで自分はずっと息をしていなかったのだろうか?
ケシは不安げにレンを探したが、もうどこにもいなかった。
部屋の音が引き延ばされ歪み始める。やがて部屋自体もそれに倣った。
空気が光沢を帯び、ケシの顔の上で張り詰め、吸い付き、目が見開かれたまま固定された。
ケシは世界が広がり、折りたたまれ、引き離されていく様子を眺めた。
全てが細かい粉のように剥がれ落ちる。
そして永遠に続く長い夜の暗い底に、塵のように散らばった。
ケシの姿もまた、完全に消え去った。