「……である先日、武装した人物がアイコア製造元のテクノロジー大手、テロス・インダストリアルの本社に乱入した間を受け、インプラントの安全性に関する議論が再燃しています」
ケシは薄汚い地下アジトを想像していたが、行き着いた場所はなんの変哲もない待合室だった。
全てがほぼ順調に進んでいた。受付係の男に予約があるかと聞かれ、ケシは「はい」と答え、こっそりと現金を手渡した。手入れされた長髪と落ち着いた雰囲気を持つその男は、ためらうことなく封筒を受け取ると、ケシに「お好きな席にどうぞ」と告げた。それだけだった。
それでもケシは神経を尖らせ、不安で貧乏ゆすりをしながら周囲を静かに見渡した。
ケシの向かい側には、だぶだぶの緑のジャージを着て椅子にぐったりと寄りかかって眠る老人がいた。その大きないびきは、受付カウンターの上に設置されたテレビからかすかに聞こえるニュースの音をかき消していた。受付係は赤いポピーの花瓶の陰に姿を隠している。おそらく札束を数えているのだろう。
「容疑者である23歳の久保リュウは、違法に入手したEMP兵器を用いて被害者のニューラルインプラントを攻撃し、その結果5名が負傷、1名が死亡しました」
いっそ薄汚れたアジトの方がよかった、とケシは心の片隅で思った。実際の病院のような独特の臭いや、吐き気を催すような雰囲気こそなかったが、それでもこのクリニックにはケシがよく知り、嫌悪するようになったあの鋭い無菌的な感覚が漂っていた。
東京に来た時、どんなに具合が悪くても二度と病院やクリニックには行かないとケシは誓った。あの空気を吸うことも、壁の殺風景な絵をじっと見つめることも、硬くて居心地の悪い椅子に座り、自分なら絶対に選ばないテレビ番組を、小さすぎて聞こえない音量で眺めることも、二度としないと。
「久保容疑者は複数の人質に向かって発砲した後、空中狙撃兵により狙撃されました」
その全てから逃れるためにトイレに何度も行ったことを覚えている。だが、それすらも、息が詰まるような体験の一部となってしまった。
「この攻撃の全容は複数のテロス社員によってライブ配信され、ニューロネット全体に発信されました。 これからお見せする映像は2D形式に再編集し、最後の部分をカットしたものです。閲覧にはご注意ください」
ケシは壁に貼られたポスターを1枚1枚ゆっくりと眺めた。ほとんどが個人の健康を増進するための一般的な案内だ。そのうちの一つに、「法律により、当施設ではニューラルインプラントに関連した治療の提供はできません」という警告が書かれていた。
「お願いだ!囁きかけてくるんだ!夜になると!...出せと!」
ケシが点滴チューブや病院食のトレイ、嘔吐物などのことを考えながら一人で座っていると、銃声と悲鳴がかすかに聞こえ、思わずテレビに向かって振り返った。
「取り出せ!!お前が俺の頭に植え付けたんだろ!今すぐ取り出せ——」
突然、建物全体が揺れ始めた。ニュースキャスターの映像が、IPコードが中央に表示された緊急放送画面に切り替わる。IPコードの上には、「35°37'08”N, 139°46'35”E 地点にて地震検知」と太字で書かれている。
誰も反応しなかった。受付係は顔を上げず、ポピーの花瓶の中の水は揺れているものの、花瓶自体はしっかりとその場に固定されている。老人もそのまま眠り続けた。
誰もが地震には慣れていた。大洪水以降、週数回の頻度で発生しているからだ。
だが、すでに不安を感じているケシにとって、その揺れは緊張を加速させるだけだった。
その地震は、始まった時と同じくらい突然におさまった。
「皆さん大丈夫ですね?」
ケシが振り返ると、ベビーブルーのスクラブを着てタブレット端末を持つ医師が見えた。20代半ばから後半ほどのその男は、顎まで伸ばした青黒い髪を真ん中で分け、禿げて後退した生え際を隠していた。背が高く、か弱く見える程に細身で、礼儀正しく申し訳なさそうな態度を見せている。
誰も医師の質問には答えなかった。
「安心しました。そこの青年、私についてきてください。準備が整いました」
ケシは部屋を見回したが、そこにいたのは自分と老人だけだった。
⋆ ⋆ ⋆
ケシは医師に続いて廊下を歩いた。
驚いたことに、ケシは待合室から個室の診察室へ通され、そこで「サービスとして」全身の検査を受けた。結果、わずかに血圧が高い以外は全く問題がなかった。
医師の落ち着いた対応が、ケシの緊張をほんの少し和らげた。
それでも、この男にはどこか違和感を感じた。目を開いたのはケシがシャツを脱いだ時だけで、それ以外は顔がまるで一つの表情に固定されているかのように、ずっと拍子抜けするほど穏やかな微笑みを浮かべていた。ケシは、どうやって前を見ているのだろうと疑問に思った。
ただその場を去りたくて仕方なかった。
「それで……時間はどれくらいかかりますか……?」
「約20分。迅速で無痛の外来手術です」
30分後にはアイコアが手に入る。
奇妙な感覚に襲われた。
9歳の時にニューロネットが公開され、他の子たち同様、ケシは20歳になるのが待ちきれなかった。
「誰にでもなれる」
その謳い文句は抗いがたい魅力を持っていた。感化されやすい子供たちだけではなく、「別の誰か、または何かになれればもっと幸せになれる」と密かに信じていた全ての人を魅了した。そして、結局のところ、ほぼ全ての人間がそう感じていることが明らかになった。
ニューロネットは単なる「完全没入型の体験」ではない。現実そのものだった。軽度の無緊張状態を誘発することで、ユーザーの意識が遠のき、触覚、視覚、聴覚、さらに味覚までも純粋な知覚として体験できるようになる。たがこれらの擬似感覚は、物理的な感覚には決して及ばなかった。特に嗅覚は再現が難しく、味覚は最終的に完全に禁止された。生命維持機能への結びつきが強すぎると指摘されたからだ。
しかしそんなことは関係なかった。それはまるで魔法。互いに共有する明晰夢のようだった。
その後の数年で、世界は次第に人けのないものに変わっていった。まるで、ある種の「携挙」が起きたかのようだった。誰もが上の階へと上がっていき、鍵のかかった扉の向こうで永遠の宴を繰り広げている。彼らは依然として肉体を持ち、街を歩き、用事をこなし、以前と変わらぬ日常の営みを続けていた。だが、それらのことはもはや厄介ごとでしかなく、仕方なくやっているだけであることにケシは気づいていた。
食事やトイレへ行くために仕方なくゲームを中断しなければならない時のように。
現実の日常は別の場所へと移り、二度と戻ってくることはなかった。
ケシのような子供たちは、疎外感を抱かずにいられなかった。
ケシは母親と一緒に見た深夜のニュース特番を今でも覚えている。社会から離脱し、全ての時間をニューロネット内で過ごす人々についての番組だ。ある女性は、ネットでは「本当の自分」へと変わることができると語った。 たとえ食べているケーキの味を感じられなかったとしても。
社会に合わせて自分自身を変える必要性は消え、自分に合わせて現実を変えられるようになったのだ。
しかし一方で、自己の境界線を完全に失い始める者たちもいた。
「ライフストリーム」が一般的となり、視聴者は少なくとも配信が始まってから自らの身体へと戻るまでのあいだ、完全に配信者と同じ体験を味わうことができた。
テロス社は後にスローガンを「無限の可能性が待っている」に変えた。しかし、アイコアという存在を形作ったのは、まさに彼らが最初に約束した「別の人間になること」だった。
長い間、特にルナがいなくなってからは、それだけがケシの望みだった。母が病気になってからはなおさらだった。……そして、今もなお。
「危険:エレベーター破損のため使用停止中」
廊下の突き当たりにあるエレベーターの前で医師が立ち止まると、明るい黄色の立入禁止テープが目に入り、ケシは我に返った。左側のドアには注意書きが貼られている。