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「いつ見えるようになるの?」


 ケシは、目の前で黄色い丸が上下に動く様子を眺めた。


 小学生の小さなグループがゆるやかな隊列を組んで立っている。全員が同じ明るい色の帽子とリュックサックを身につけ、そわそわと落ち着きなく動きながら先生がチェックポイントの職員との会話を終えるのを待っている。反射材のたすきが人工の強い光を跳ね返し、ケシの目に眩しく入り込んだ。


「電車から見えたじゃん」


「僕には見えなかった」


「どうでもいいじゃん。スカイツリーの方が高いんだよ。お姉ちゃんが言ってた」


 D-4検問所は、山手線内回りの現在の終点駅である目黒駅の東口に設置されている。かつての環状線は目黒駅と新橋駅の間で分断されていた。


 インプラントを入れていない、または事前登録していない非居住者および外国人観光客は、最左端の手動手続きレーンに並ぶ必要があり、その列は氷河のようにゆっくりとした速度で進んでいた。


 ケシが視線を右側のIICゲートへと移すと、開かれた門を絶え間ない通勤者の流れがスムーズに通り抜けている。


「みんな、シールは持ってるかな?」


「は────い!」


「ゲートを通る前に、シールをはがしてみんなに見えるように胸に貼りましょう。助けが必要な場合は、バディのお友達に聞いてね」


 鮮やかな黄色の帽子たちが次々と飛び跳ねながら門を越えていく。後ろの二人の子供はゲートを通る時に「チーン!」と叫び、頭を触って両手を広げた。想像上のアイコアで門を起動させたのだ。


 ケシはカウンターに近づき、明らかに興味のなさそうな検問所の職員に身分証明書を渡した。丸顔の中年男性で、ワイヤーで縁取られたアビエイター型のメガネをかけている。


 職員は顔を上げることもせず、目をぴくぴくさせながら職務を遂行した。数回呼吸するごとに、喉の奥から鼻の穴を通してフーッと息を吹き出す。


 ケシの身分証明書がスキャンされると、頭上の大きな画面にそれが映し出された。自分の顔がモニター上に大きく映し出されるのを見て、ケシはまるで犯罪者の逮捕写真を見ているかのような気分になった。急に、パーカー前ポケットの中の現金入りの封筒が気になり出した。現金を持ち歩くこと自体は違法ではないが、明らかに怪しい。


 エイジがどうやって手に入れたのか、ケシは知りたくもなかった。


「訪問の目的は?」


「家族、日新、ブロックE」


 システムがチンと音を立て、画面内の身分証の上に半透明でターコイズ色の長方形が表示された。カウンターに設置されたキオスク端末から、「04FEB2048」と印字された同色のシールが印刷される。


「デイパスは22時に時間切れになります」


 職員はフッーと息を吐きながら、ケシに身分証を返した。


 ケシは蛍光色のシールをはがし、胸元に強く押し付けた。シールはコイルがはめ込まれていて、硬い。


 読み取り機が緑色に点滅し、ゲートが開いた。


 ゲートの向こう側は、店舗や屋台がひしめき合う賑やかな屋外広場だった。コーヒー、アスファルト、そして熱いおでんの混じり合った香りがゆっくりと彼の鼻の奥に広がった。


 封筒を落としていないことを反射的に確認した後、ケシはジーンズの後ろのポケットに手を伸ばし、折りたたまれたA6サイズの紙を取り出した。紙は端から端まで、かろうじて読める手書きの文字で埋め尽くされている。


 D-4 目黒の手動検問所、7:30〜9:30時、訪問理由:「家族、日新、ブロック E」、目黒通りを700メートル進み、フレンチベーカリーを左に曲がる……


 急に冷たい空気が流れ込み、広場の匂いに潮の香りが混じって、ケシの鼻をツンと刺激した。


 確かに、平域の空気は独特だった。

 ⋆ ⋆ ⋆

 港区は変わり果てていた。


 大洪水が街を飲み込み、取り返しがつかない程に東京を変えてからほぼ二年が経過した。


 22万人。想像しがたい数字だ。


 平域とは、6つの区(大田区、品川区、港区、中央区、江東区、および渋谷区の一部)にまたがる直接的な被害を受けたエリアのことで、水が引いた後は指定避難住宅・復興地区となっていた。


 約1年前に訪れた時以来はじめて平域に足を踏み入れ、ケシは以前からの不安がまた忍び寄ってくるのを感じた。ルナとその家族が災害で命を落とした可能性は常に考えないようにしてきたが、周囲に広がる景色を前に、死や喪失が頭に浮かばずにはいられなかった。


 検査に合格した建物は営業の再開が許可され、コンビニ、スーパーマーケット、ドラッグストア、レストラン、バーが入り混じった光景が街に微かな活気を与えていた。


 しかし、新しく舗装された大通りから一歩外れた古い通りには、深い傷が残されている。


 それは、何列にも並ぶ仮設住宅群を見下ろすように空っぽの高級マンションがそびえ立つ、対照的な風景だった。


 夜になると、港区の中心部に残された高層ビルはすべて内部から照らされ、空っぽのオフィス、ガラス張りのスポーツクラブ、スカイラウンジ、そして廃墟となったペントハウスの骨組みを浮かび上がらせた。追悼の意とアートインスタレーションを兼ねたこの作品は、洪水で自宅兼アトリエを失った芸術家によって構想されたものだった。


 ケシは、実際に住んでいる人がそんな発想をするだろうかと疑問に思った。


 それでもなお、残された干潟と「ゴーストタワー」群はどちらも主要な観光名所となり、やがて区のアイデンティティの一部として受け入れられた。


 だが、外側の地区を進むケシの視線は、景色ではなく自分を見つめ返す無数の顔に向けられていた。


 何百という行方不明者の張り紙が、建物の側面や街灯、自動販売機など、ありとあらゆる場所に貼り付けられていた。写真の下には、警視庁が設けた行方不明者対策班への直通番号となるIPコードが記載されている。行方不明者リストは同班のウェブサイトでもテキスト形式で公開されていて、ケシは定期的に確認していた。


 ルナと両親の名前は、約6万件のリストのどこにも見当たらなかった。だが、それは大した慰めにはならなかった。


 その時点ですでに行方不明になっていたからだ。

 ⋆ ⋆ ⋆

 いつしか、ケシは別の次元へと入り込んでいた。


 音はもはや同じようには響かず、まるで世界全体がささやき合っているかのようだった。冬の日差しはいっそう暗く、風は三倍も冷たく感じられた。露出したあらゆる表面には薄いガラスのような膜が輝き、触れると剥がれ落ちて粉々に砕けた。空気さえもが、より粗く感じられた。


 バランスを崩したような感覚を覚え、ケシの不安な気持ちにさらに拍車がかかった。


 最も難易度の高い部分はゲートを通過することだと思っていたが、長時間歩いているうちに考えが変わった。


 平域の奥へ進むにつれ警備がより強化されていることに気がついたのだ。警察だけでなく、ライフルを持った兵士までいる。もし違法な活動を行うとしたら、なぜこんな場所を選ぶのだろうか?


「ネット上のどこかにいる」と言われた時は、全てうまく行くような気がした。


 しかし、アイコアがあっても、ルナを見つける具体的な計画はなかった。ニューロネットは東京よりもはるかに広大だ。今度は街の中ではなく自分の頭の中で、さらに荒涼とした通りを果てしなく彷徨う自分の姿をケシは想像した。


 冷たい風がパーカーの布地を切り裂くように吹き抜け、ケシはエイジの判断を信頼してしまったことを後悔した。


 ──ただ、探し続けて。


 慣れ親しんだ言葉がケシの思考の渦を遮った。


 初めてその声を聞いたとき、ケシはベッドに横たわっていた。眠っていたのか起きていたのか分からないが、耳元でささやいたその声は間違いなく本物のルナの声だった。それ以来、行き詰まりや絶望を感じ始めたとき、ケシはその言葉を一種のマントラのように繰り返すようになった。


「ただ、探し続けて……」


 その声が、ルナの亡霊でないことを祈った。


 小さな紙片を見つめながらケシが道を渡ると、大きな影に覆われた。見上げると、色あせたピンクの日よけに「AMI クリニック」と書かれている。


 ケシは手の中の紙をくしゃくしゃに丸めた。


 その時、遠くでシューという音がして、ケシは東京湾の方を向いた。空を見上げ、表情を硬くする。


 頭上に、海がそびえ立つ壁のように迫っていた。


 ケシは黒いヘリコプターの尾がその上に消えていくのを見つめた。


 高さ約300メートルもの水の塊が斜めに街を貫き、建物の中にはその半分だけが水に浸かっているものもあった。露出したバルコニーにはウミツバメやカモメの群れが止まり、穏やかな海水に浮かぶケーブルや瓦礫にまみれた漂流物の中には、魚の群れが泳いでいるのが見える。


 なぜ水が持ち上がっているのか、誰も知らなかった。公式には。


 調査を任された研究者たちは口封じされていたが、多くの俗説が飛び交った。磁極の反転、地球温暖化、中国や北朝鮮の大量破壊兵器、海底下の超伝導体。さらに、少なくとも6人のカルト指導者が自らの関与を主張した。


 エイジは闇予算のエイリアン技術だと断言した。ケシはどうやったらその両方になるのか理解できなかった。


 政府の公式見解は「異常気象現象」であったが、洪水の壁が決壊する危険性や、再び内陸へ押し寄せる危険性は当面ないと主張した。


 一時期は、国民もそんな政府の言葉を信じただろう。しかし、何事も疑わずに信じる時代はとっくの昔に過ぎ去っていた。


 どっちでも一緒だ、とケシは思った。止められるわけがない。人工のバリケードでも、武装した兵士でも、アートプロジェクトや張り紙でも。


 大洪水の壁は単に避けられない現実を可視化した。それでも、表面的には生活は続いていた。仕事を持つ者は出勤する必要があったし、電車は走り続けなければならなかった。空腹を満たし、髪を洗い、歯を磨く。維持管理。しかし、それら全てに意味を持たせるためには、何らかの未来を信じ続けねばならなかった。


 だが、死の影が絶え間なく迫り来る中で生きることは、人々を大きく変えた。

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