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 4.47キロメートル離れた場所、地下77メートル地点にて、佐々木レンは明るく照らされた司令室の中央で警戒態勢を保っていた。


 黒のコンバットブーツに同色の太ももまでのストッキングを履き、黒のデニムのショートパンツの下にわずかに肌が覗いている。体にぴったりとフィットした暗い色のシャツの上には、反射性のある生地で作られたダブダブの灰色のボンバージャケットが羽織られている。 背中には、翼の生えた蛇が自らの切断された頭を抱えるロゴが刻まれていた。


 冷静沈着な様子で、漆黒の髪はきつく高いポニーテールにまとめられ、紫色のヘアゴムだけが唯一の差し色になっている。


 澄んだ灰色の瞳で、レンは顔をしかめた。


 数日間の計画の集大成となる、忙しい朝だった。この一週間、クリニックを昼夜を問わず監視してきた。行動を起こすためには、断固たる決断が不可欠だったのだ。敵は隙を見せた。同じ過ちは犯せない。


 最終的に選んだオルターは、第一でも第二の標的でもなかったが、内部に潜入するには十分だった。


 たが、接続が不安定になったことで事態はすぐに難航した。まあいい。移植が完了するまでの間だけ、そしてその後、取り出しの時に接続を維持すればいいだけだ。


 それでも、レンにとっては気がかりだった。


 機械の不具合、高度なクローキング・システム、オペレーターの未熟さ、あるいはさらに悪質な何か。原因が何であろうが、関係なかった。いずれにしても予期せぬ異変には違いない。


 小さくとも顕著な未知の存在。


 それに、レンが何よりも嫌うことは——


 ──やめろ。


 レンは拳を握りしめ、頭の中の嵐を鎮めた。


 ミッションは実行されたのだ。


 フィールドエージェントのチームとテレパシーで意思疎通しながら、レンは口角を下げて顔をしかめた。


【第一目標はバンカーだ!】


 次は、エミが任務を果たす番だ。

 ⋆ ⋆ ⋆

 Ami クリニックの待合室では、武装し濃い灰色のつなぎを着た特殊急襲部隊(SAT)の隊員3名が、武器を構えた状態で医師の周囲を囲んでいた。目はヘルメットのふちに付けられた黒いフェイスカバーの奥から覗いている。


 真っ白な「POLICE」の文字がプレートキャリアの胸元に大きく刺繍され、小さなベルクロテープで個々の分隊番号である01、02、03が示されていた。


 医師は平然と両腕を空中に掲げたまま立っている。先程とは違い、目が大きく見開かれ、穏やかな微笑みはいたずらっぽい笑みに変わっていた。


 レンはニューロコム回線を通じて指令を叫び続ける。


【地上階を制圧せよ、射撃許可!】


【はい、チーフ!】


「な、何だ!?」


 医師が振り返ると、受付係がカウンター越しに恐怖と疑念の表情で凝視している。


「そうそう、銃と言えば……」


 医師は、両手を頭上に挙げた状態で、受付係を指差した。


「あいつ」


 SAT 01が銃口を向けると、受付係は椅子から飛び降り、カウンターの裏へと消えた。SATはその姿を捉えて追跡しているのだろう。消音器付きPK10を数発を発射した。弾丸が机を引き裂き、前面パネルの下にへこんだ防弾シールドが現れた。


 受付係が、平らで滑らかな銃口を持つ奇妙な拳銃を握りしめて立ち上がった。だが、引き金を引く前にSAT 02が銃を連射し、カウンター上のポピーの花瓶が爆破した。


 受付係の死体が椅子に倒れ込むと同時に、SAT 01は素早く振り返りPK10を発砲した。 同じような拳銃が床に転がり落ち、続いてもう一人の体が倒れ込む。緑のジャージを着た老人だ。 即死だった。


 二人のSAT隊員が医師の方へ振り返ると、医師は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


「おっと……ひとり見逃してたみたい」


 スクラブ姿の看護助手が突然待合室のドアを勢いよく開けて飛び込んできた。


「一体、何が——ぐっ」


 SAT 03が直ちに彼を壁に押さえつけ、SAT 01がレンに状況を伝える。


【脅威の無効化、完了】


【収納袋へ!】


 SAT 03 は男の手首に巻きつけたプラスチック製の手錠をきつく締めつけた。


【こいつもですか?】


【そうだ。脚を縛ってバイトブロックを装着させて】


【はい、司令官!】


【エミ。クローキング・システムを】


「分かってるって、そんなに焦らないでよ!」


 医師は、目を泳がせながらアイコアが生成した制御パネルを操作し、顔をしかめた。彼が話すと、テレパシー通信回線上で第二の声が聞こえた。若い女性の声だ。


「統合には時間がかかるって知ってるでしょ?」


【統合には時間がかかるって知ってるでしょ?】


【雑になってきてる】

 ⋆ ⋆ ⋆

 レンは、司令室の反対側の壁に沿って設置されたマルチスクリーン・ホロディスプレイ上に映る光景を見つめた。中央に浮かぶ3つのウィンドウには、3人のエージェントからの映像フィードが表示されている。


【とっくに済ませておくべき。それに、ミッション中はニューロコムだけを使うこと。何度言えば分かるの?】


【いつも口うるさいなぁ】


【あと、役らしくないことはしないように】


【いいじゃん、人をビビらすのがこの仕事の唯一の楽しみなんだから!】


 レンの眉がぴくっと動いた。またあの態度だ。


 新しいオペレーターが加わって以来、エミは感情をむき出しにしていた。


 レンの副司令官であり、エミの世話役でもあるアカシは、「万が一に備えて」自分の代わりを用意するよう強く主張していた。まあいい。間違ってはいない。人員不足は明らかだった。だがレンは、アカシの要求が真摯な責任感というより怠惰から来ていることを知っていた。


 レンは今ではフィールドエージェントのチームを率いるだけでなく、あまり頼りにならない司令部メンバーの大人げない揉め事にまで付き合わなければならなかったのだ。


 レンは右側をチラリと見た。


「ユキ、エミの状態は?」


 若い科学者が自分の名前を聞いて飛び上がった。


 ユキはコンソールの前に硬直したまま座り、自分の席に付いている取っ手を握りしめた。丸い縁なしの眼鏡のレンズの中では、抽象的な形が次々と変形している。


「はい、司令官!」


 ユキの椅子が突然回り始めた。内蔵されたストラップが、アイロンをかけたばかりの黒いブラウスを締め付けて、ユキの体をその場に固定する。


 別の3Dホロディスプレイの上に、まるで蛍のように点滅しながら漂う光の粒が投影された。 その内側では、煙のようなかすかな光がゆっくりと螺旋を描きながら回転している。


「エゴ・バリアは完全に無傷!同化の兆候は一切ありません!」


 レンは、慌てて何度もモニターを確認するユキの前髪の雪だるま型ヘアクリップが、忙しく前後に動くのを見つめた。ユキの栗色の髪は片側だけ長い一筋を残し、残りはいびつなおだんごにまとめられている。


 神経質な女の子。内気。だが、学ぶ意欲に満ちていて、頭の回転が速い。レンは候補者リストから自らユキを選んだ。


 何よりも、従順だ。


 レンの視線がユキの横で前かがみに座る人影に移った。だらしなく髪が乱れ、そして例によって服装規定に従わない唯一の人物。アカシが、コントロールデッキの縁から厚い黒縁メガネ越しにこちらを覗いている。光沢のある半透明の白衣の下には、緩くボタンを留めた薄紫色のシャツが見えている。


 アカシはボサボサに乱れたチャコールグレーの髪の、白髪が混じったこめかみ部分を掻きながら小さく頷いた。


「コントロールできている」


【ほらね!】


【エミ、ミッションに集中して。これ以上の失敗は許されない】


【ふ──ん、みんなはミスしてもいいけど私だけはダメってことね。分かった】


 ユキが苦笑いをし、その頬が赤く染まり始める。アカシが励ましの言葉をかける。


「大丈夫、よくやってるよ」


 そう言いながら、アカシはあくびをした。


 レンは鼻の穴を膨らませた。


 幻内アカシ。実にうっとうしい男だ。彼の人生で唯一成し遂げたことといえば、あの装置を作ったことだけだ。それ以外は、 野心もなければ、義務感も微塵にも感じられない。


 同時に、やけに気取っていて、真面目さに欠けている。アカシは解雇することも、後任に替えることもできない(レンは実際にそうしようと試したことがあった)。アカシはそういった自分の立場をよく知っているのだ。


 まあいい。


 ユキのトレーニングが順調に進めば、アカシはようやく望み通りひっそり研究であろうがなんであろうがに没頭でき、レンは有能な副官を得る。


 あとは実際のミッション以外でユキをトレーニングする方法さえあれば……。


【は──い、かんりょう!】


「アツ」


 レンの視線が、自席の前のホロスクリーンを見つめるミッション技術担当者に向けられた。


 技術担当者のディスプレイの中央にはクリニックの航空スキャン画像が表示され、アイコアが埋め込まれた人物の位置情報を示す光る点が浮かび上がっていた。レンはクリニックの奥の一角がグリッチを起こすのを目にした。さらに四つの点が現れると、システムは即座に四人を識別し、IDが画面に表示された。


 アツはいつものように落ち着いた、単調な声で話した。


「ID登録済み」


 変わり者。それは間違いない。だがレンにとって唯一頼りになる部下だった。


 アツは生まれつき目つきが鋭く、眉毛がないことがより一層その印象を際立てていた。藁のような短い黒髪が四方八方に逆立ち、まるでベッドから転がり出たばかりのような印象を与えている。


 レンは何かを必要とする時にアツを頼ることが多く、彼を実質的なナンバーツーと見なしていた。


 アツは肩越しにちらりと振り返ったが、目線は合わせなかった。


「完了しました」


 レンはメインディスプレイの方へ振り返った。


【ガイ、長澤、ノリ。テレメトリーを同期中】

 ⋆ ⋆ ⋆

 SAT 01は受付デスクの後ろにしゃがみ込み、黒い遺体袋のジッパーを受付係の顔まで引き上げた。すると突然、床下に三つの幽霊のようなが人の形が浮かび上がった。右目が半開きの状態で動かないその隊員は、左目を細めた。


 フィールドエージェントの中で最も大きく背の高いガイ。その声には、荒削りな素朴さが感じられる。


【チーフ。ビジュアルを確認しました】


 SAT 02は老人の入った遺体袋を肩に担ぎ上げ、うめき声をあげた。ガイよりほんの数センチ背が低く、引き締まった筋肉質の体を持つ長澤だ。


【収納完了】


【向かっている】


【さっさと開けてくれないか!?】


 カウンターの反対側では、顎までジッパーを閉められ首を捻ってもがく看護助手の口にバイトブロックを差し込もうと、SAT 03が奮闘している。最も背が低く細身のノリの声からは、他のフィールドエージェント二人にはない若々しい意欲が感じられる。


【ほら、あ──っ】


 前触れもなしに、長澤が振り返り収納袋に向かって銃を発射し、看護助手の足に命中させた。男は痛みに叫び声をあげる。


 ノリはバイトブロックを入れることに成功し、急いで収納袋のジッパーを顔まで引き上げた。安堵のため息を吐き、長澤の方を向くと、長澤は肩をすくませた。


 突然、鐘の音が鳴った。


 長澤は腰だめに銃を構え、さっと振り返る。


 入り口のドアの前で、ぶかぶかのコートとバケットハットを身につけた十代の少年が、小さく破れた紙片を握りしめたままじっと動かないで立っている。


 少年は少し間をおいて、割れたガラス片や花びら、空薬莢、そして血痕が散らばる待合室をゆっくりと見渡した。ノリは依然として看護助手と奮闘している。モゾモゾと動く収納袋からは看護助手のくぐもった叫び声が聞こえている。医師は彼らのすぐ後ろに立ち、両手を上げたまま陽気にニヤニヤ笑っている。


 長澤が沈黙を破った。


「予約があるのか?」


 少年は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔で長澤が持つPK10の銃身を見つめ、何も言わない。


 ガシャ──ン


 装甲車がドアの横にある正面窓を突き破ってバックで突っ込み、ガラスが部屋中に飛び散った。


 少年がビクッと震える。トランス状態が解けたようだ。


 少年は慌てて目の前で手を振り、振り返って扉の枠にぶつかりながら走り去った。その拍子に紙切れを落としたようだ。


【どうしますか?】


【構わないで。バンカーに突入する】


 医師はクリニックの残りの部分へと続く扉を開け、優雅な身振りで招いた。


「よ─し、みんな、ついてきて——痛っ!!」


 ガイが背後から医師を力ずくで掴み、体の向きを変えてプラスチックの手錠をかけた。医師はもがき、頬を金属に押し付けた状態で、怒りを込めてガイを睨みつけた。


「にょっと、気をつけてよ!こりぇでもレディーなんだけど!」


 ガイは素早く身体検査をし、スクラブの上着をたくし上げた。背中にはEMPピストルが括り付けられている。


 レンがエミを叱りつける。


【武器について、私は何と言った?】


 医師はわざとらしい無邪気さを装った。


【最初から付いてたんだもん、私のせいじゃない】

 ⋆ ⋆ ⋆

 レンは目を細めた。振り返り、背後にあるベッドの上にいる人物を見つめた。


 アカシとユキの作業台の下から突き出た部分に横たわる少女は、多層構造の黒いボディスーツを身につけ、その上に輝く人工の薄絹が吸い付くように密着し、全身がまるで真空パックのようなっていた。


 眼球がまぶたの下でぴくぴくと動いているが、それ以外は完全に静止している。口がわずかに開き、あごまでの茶色のボブヘアがヘッドレストのクッション上に広がっている。その頭上では、虹色の光が渦巻きながら輝いている。


 奇妙な運命だ。あらゆる戦力や知力、資源を結集しても、最終的にはこの痩せ細った、とっつきにくい少女にすべてがかかっているというのだから。


 奥の手。少なくとも、以前はそんな存在だった。


 ここ数ヶ月、エミは調子が狂っていた。最初はごくわずかな変化で、レンだけが気づくような小さなミスだけだった。


 しかし、今では隠しようのない亀裂が生じ始めていた。エミはもともと少し不安定なところがあったが、 最近、扱いがますます難しくなっていた。


 そしてユキの加入を境に事態は一気に悪化し、やがてエミの小さなミスは致命的な問題へと発展していった。


 危機一髪の状態が続き、さらに緊迫した状況へと発展し、前回のミッションでの惨事へと至った。テロス本社での襲撃事件である。


 それ以来、そのことがレンの心にずっと重くのしかかっていた。


 ミッションの出だしは順調だった。 標的にエミを送り込み、相手を素早く無力化させた。 しかしその後、かつてない事態が発生した。


 エミがコントロールを失ったのだ。


 レンが命令を下した。他に選択肢はなかった。


 エミが銃弾を免れたことをレンが知ったのは、その後になってからだった。幸いにも、ユキが間一髪、エミを引き抜いたのだ。


 口には出さなかったが、レンはエミがまだそのことで怒っているのを知っていた。


【積み込みが完了しました】


 即死に至るような攻撃ではなかった。襲撃者は本部へ戻る途中で死亡した。


 レンは鼻から息を吹き出し、目を閉じて長めの瞬きをした。


 ただの、愚かなガキだ……。


【チーフ。護衛を確保しました】


 レンは集中して、振り返る。


【進め!ガイ、長澤、先頭について!】


【はい!】


【行くぞ!】


【ノリ。 後方でサポートして】


【了解!】


【拳銃以上の武器を持っていると想定せよ!】

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