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 医師が首を傾けたまま、完全に静止して立っている。その目には思考も感情も宿っていない。空っぽの器のようだ。


 次第に、頭の重みによって体が左右に傾き出し、ついに彼はバランスを失った。 もがき、なんとか体を支えようとするがうまくいかない。その瞬間、瞳に一瞬だけ意識が戻った。


 恐怖。


 ノリは銃を構えたまま、背後から医者が床に崩れ落ちるのを見つめた。

 ⋆ ⋆ ⋆

 ケシは不安げな表情で技術者をじっと見つめた。


 男の顔が突然凍りついたように固まった。口を開けたまま、虚ろな表情を浮かべている。声を発そうとするが、何も出てこない。首の筋肉がぴくぴくと痙攣し、血管が浮き出ている。


「あの……大丈夫ですか?」


 ケシが質問を投げかけるやいなや、技術者は水から上がった大きな魚のように、力強く息を吸い込んだ。


 技術者は焦点の定まらない目で部屋を見渡した。その目線は、まるでケシが家具の一部かのようにケシを通り過ぎていった。 その後、自分の左手をじっと見下ろした。指がぴくぴくと震えながら、何もないところを掴もうとしている。


 ついに、技術者が答えた。


「いやー……今回はキツかったわ」


 技術者が唖然として首を横に振ると、ケシと目が合った。


「あ、君」


 技術者はハッとしたように反応すると、顔を前に突き出した。ケシは姿勢を後ろに倒し、鼻から息を吸わないよう努めた。


 技術者はゆっくりとケシを頭からつま先まで見渡すと、ウインクした。


「また二人きりで会うことができて嬉しいよ、かわい子ちゃん」


 ──えっ。


 技術者は唇を尖らせて、キスをしようとした。


 ケシは恐怖で身を引いたが、バランスを崩して後ろ向きに床に倒れ込んでしまう。

 ⋆ ⋆ ⋆

 サブマシンガンを持った三人の男たちの死体が、メインの廊下の各所に転がっている。ガイと長澤は隣接する通路の両端に立ち、背中を壁に押し付けている。


 長澤が前に進み始めるが、ガイが止めた。


【あの若造のことを待て】


 その時、金属が擦れるような音がして、ガイは思わず振り返った。手榴弾のような小さな物体が二人の間を転がり込んでくる。


【下がれ!!】


 まばゆい閃光を放ち、物体が爆発した。

 ⋆ ⋆ ⋆

「アカシ、こいつ宝の山だよ!ヌースってやつのこと、なんでも知ってる」


 床に倒れ込んだまま、ケシはひどく混乱した様子で、技術者の眼球が狂ったように動き、見知らぬ相手と話すのを見つめた。


「知らない。探し続けるよ」


 ──……何が起きたんだ?


 技術者はもはや別人だった。仕草や話し方だけでなく、人柄そのものが変わっていた。


 明らかにもともと病んでいたようだが、それとはまた別だった。


 それはまるで……


「奴らと会話してる。まぁ、少なくともそのうちの何人かと。追跡できない形で」


 さっき技術者が告げた警告がケシの頭の中で響いた。


 不気味な感覚が押し寄せる。


 恐怖で胃が締め付けられた。


「いや、こいつはただの下っ端だよ」


 ──これは別の誰かだ。


「おそらく、独自の非公開ネットワーク上でニューロコムを使う方法を見つけたんだと思う」


「お願い、殺さないで!」


 考える間もなく、ケシの口から言葉が飛び出した。技術者は振り返り、困惑した表情でケシを見つめた。


「お願いです!僕はこの人たちのことを知りません!アイコア目的で来ただけなんです!」


 またもや激しい銃声が轟いた。ケシは頭を押さえながら横に倒れ込んだ。

 ⋆ ⋆ ⋆

 ユキが目を閉じたまま呼びかけた。


「佐々木司令官!他に人がいます!少年です」


 レンは戸惑いながら振り返った。


【エミ、その少年は誰?】

 ⋆ ⋆ ⋆

 銃声が突然止んだ。ケシはゆっくりと手を下ろした。技術者は部屋の向こう側からケシをじっと見つめ続けている。


「気にしなくていいよ。誰でもないから」


 男の顔に不吉な笑みが浮かんだ。 銃を振り回し、ケシにまっすぐに突きつける。


「なんで?始末した方がいい?」


 技術者が持つショットガンの二連銃身を睨みつけたケシの体に、稲妻のような衝撃が走った。


 これ以上、耐えられなかった。

 ⋆ ⋆ ⋆

 レンが眉をしかめた。


【必要ない。エミ、銃を降ろして。命令だ】

 ⋆ ⋆ ⋆

 ガンメーカーは巨大なライフルで次々と連射を浴びせながら廊下を突き進んだ。光の塊が渦巻いて廊下全体に広がり、銃弾が壁に跳ね返った。


 連射する度に、虹色の霧がケーシングの穴から吹き出している。

 ⋆ ⋆ ⋆

 ガイと長澤は通路の壁の陰に身を潜めていた。閃光が彼らの横をすれすれに飛び交い、攻撃の隙を与えない。ガイは左手を頭に当てた。


【見えんな】

 ⋆ ⋆ ⋆

 ガンメーカーはライフルのスイッチを押し、自動射撃モードに切り替えた。手を離した後も発砲が続く。その後、体に装着した二丁の拳銃に手を伸ばし、ライフルが撃ち続ける中、銃を構えた。

 ⋆ ⋆ ⋆

 ガイは必死に体勢を立て直そうとした。長澤が左手で合図を送る。


【1秒間隔だ。3度目の攻撃後に応戦する】


 ライフルがさらに2度、連射した。さらにもう1度。


 3度目の連射で、ガイと長澤は角を曲がり応戦した。


 バーン


 ガンメーカーのぐったりとした体が二人の間の床に倒れ込んだ。死んでいる。


 技術者《エミ》が廊下の奥に立っている。銃を振りかざし、ウインクして可愛らしいポーズを取ると、銃口から上がる煙を吹いた。


【すごっ、レン、私、結構これ得意かも】


 ガイと長澤は肩の力を抜き、PK10を下ろした。


【……ミッション完了】

 ⋆ ⋆ ⋆

 レンはメインのホロディスプレイをじっと見つめた。ガイと長澤の画面は端が歪み、グリッチしていたが、徐々に安定しつつある。


 レンは腕を組むと、中指をこめかみに押し当てた。


 目的は、ガンメーカーを生きたまま捕えることだった。


 ──エミ……


 ミッションは再び失敗に終わった。


【収納袋へ 。ラボで何か絞り出せるかやってみよう】


【了解】


【ノリ、インプラントとそれ以外の密売品を全て回収して】


【はい、司令官!】


【カイト。制服をありがとう。届けたら連絡する】


 間を置いて、深く、疲れ切ったような声が答えた。


【いつでも喜んで危険を冒すよ】


 警視庁の二重スパイであるカイトは、今では欠かせない存在となっていた。物資調達。陽動作戦。隠蔽工作。そして警察の動向を常に把握している。


 ノリはカイトの推薦により警察を辞めた直後に採用された。


 チームに理想主義者が一人いることは良いことだ。


 レンは肩の力を抜き、長いため息をついた。そして微笑むアカシを横目でちらりと見た。


「いつも言っているが、君はもっと信頼した方が——」


「聞きたくない」


 レンはメインディスプレイの方へ振り返った。


【ガイ、エミを引き離すからブロックを入れて】


【あの、チーフ?】


 突然、エミの声がニューロコム回線を通じて聞こえてきた。


【うっ……うっ……うっ……】


 レンはエミの体のほうに振り向いた。


【エミ!何が起きている?状況は?】


 メインのホロディスプレイには、涙を流しながら廊下に立ち尽くす技術者の姿が映し出されている。


「うっ……うっ……うっ……うっ……うっ……」


「アカシ、エミを引き離して!」


 アカシはユキを脇へ押しやり、制御システムを操作し始めた。


「思考のループに陥っている」


「ドクターアカシ、私は何もしていません!」


【エミ、しっかりするんだ!】


 3Dホロディスプレイ上では、煙のような筋が震えながらギザギザの線へと変化した。そして細胞のように分裂し、より小さな形へと変形しながら増殖していく。


「同化しつつある」


【うっ……うっ……うっ……うっ……】

 ⋆ ⋆ ⋆

 SAT隊は不安を募らせながら見守った。


【チーフ、ご命令は?】


【撤退せよ!】


「うっ……うっ……」


 技術者が突然少しの間、口をつぐんだ。その目は澄み切っていて虚ろだ。


「うっ……つくしい」


 技術者の頭が爆発し、細かい赤い霧となった。


【エミ!!!!】

 ⋆ ⋆ ⋆

 レンは微動だにせず、その凄惨な光景を凝視した。瞳が揺らぎ、口はぽかんと開けたままだ。


 レンの後ろでアカシが叫んだ。


「ユキ、生命維持を。今すぐ!!」


 ユキは顔に手を当てたが、間に合わずに吐いてしまった。口元を拭うと、頬に少し吐瀉物が広がった。もう片方の手では、ハーネスを探り当てた。


 アツはモニターから顔を背け、静かながらも動揺した表情を浮かべた。


 ベットに横たわるエミの瞼の下でビクビクと動いていた眼球は、今では動きが止まっている。

 ⋆ ⋆ ⋆

 バンカーではケシが両手で四連装拳銃を握りしめ、非現実の雲の中に迷い込んでいた。火薬が肺に充満し、目と喉が焼けるように痛む。


 自分に引き金を引くつもりがあったのかどうか、わからなかった。何一つ確信が持てなくなっていた。


 ケシは目の前の床にある奇妙な形状をじっと見つめた。


「エージェント負傷!」


 すでに耳鳴りがしていた。廊下の向こう側から大きな音が聞こえたが、それはほとんどケシの耳には届かなかった。もしお腹と背中に広がる、ぶくぶくと沸き立つような灼熱感がなければ、完全に気づかなかったかもしれない。


 ケシは前ポケットのテカテカとした部分を見つめた。その部分は次第に広がっていくように見えた。手を伸ばして触れてみた。すると、パーカーの赤い色が自分の手に移った。


 自分が落ちていくのを感じた。

第一章 完

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