遠くで響く音が聞こえ、ケシの目がパッと開いた。
意識が戻ると、自分がベットで起き上がっていることに気がついた。
部屋は見覚えがあった。縞模様の黄色い壁紙も、足元に掛かったニットの毛布も、すぐに分かった。ドレッサーの一番上の引き出しに飾られた、彫刻が施された貝殻も……そしてその横の床に置かれたゴム製の顔を持つピエロ人形も。
なのに、自分がどこにいるのかはっきりとは分からない。
外から車のトランクがバタンと閉まる音が聞こえた。続いて鍵がガチャガチャと鳴り、ケシを現実に引き戻した。ケシは鋭くハッと息を飲み、頭を右側に向けた。
「──お母さん?」
開いたドア越しに空っぽの暗い廊下を覗き込み、足音が聞こえてくるのを待った。
だが、何も聞こえない。
「俺、マジで頭がおかしくなってきてる」
左の耳元で響く声に、ケシの身の毛がよだった。
振り返ると青年がベッドのケシの横に横たわり、天井を見上げている。
自分よりもいくつか年上のその男は、ブリーチした坊主頭に太い黒眉、そして鋭い顔立ちをしていた。白いTシャツの上に、ウールの襟が付いたぶかぶかのデニムジャケットを軽く羽織っている。折り返したジーンズの裾でよじれた清潔なシーツに、素足が食い込んでいる。
その男を見て、ケシは急に激しい胸の痛みを感じた。
だが、部屋と同じく、彼が誰なのかはっきり分からなかった。
彼の名前は心の奥深く、暗がりのカーテンの向こうにチラついていた。だが、どうしてもその音を発することができなかった。
彼を知っている、分かっていたのはそれだけだった。
自分の体内のあらゆる化学物質がそう伝えているような気がした。
タバコ。他の人なら苦手なその匂いが、爽やかな外の自然の香りの中に混ざっていた。まるで太陽の光が彼から匂ってくるかのようだ。
青年が振り返り、ケシの目をじっと見つめた。ケシの胸がドキッと高鳴る。
「なんだよ、その顔?」
躊躇うことなく、ケシの口から言葉が出た。
「くだらないことばかり言ってるなって。それだけ」
男の鼻の穴から笑い声が漏れた。しばらくすると、その視線は遠くにある何かに移った。
「ガチで言ってる。俺、何かがおかしい」
「うん。約束すっぽかしたしね。最低」
言葉が軽々しく出てきたが、言いながらまだ胸が傷んでいた。
青年の声のトーンが和らいだ。
「悪かった。少しひとりになりたかったんだ」
彼がケシの腹をちらりと見ると、突然心配そうな表情に変わった。
「お前、血が出てるぞ」
ケシが青年の視線を追うと、自分の体が腰の深さまで血の海に浸っている。
ケシはシーツに赤い筋を描きながら急いでベッドから飛び起きた。が、裸足が堅いフローリングの床に触れた瞬間に足が滑った。何とかナイトスタンドで体を支えることができたが、その縁には濡れた手形が残った。
少しの間、ケシはただ血溜まりを見つめた。
ものすごい量の血だ。
再び、言葉が溢れ出した。
「縫いものしていて針で刺しちゃったんだ……」
血がマットレスに染み込むにつれ、自分が横たわっていたシーツに小さな穴が開いていることに気づいた。
「かなり深く刺したんだな」
「うん、まあ。縫い物って危険だよね」
青年が微笑んだ。
「まあ、そうだな」
ポタッ……ポタッ
ケシが下を向くと、まだ出血が続いていた。大きな血の滴が明るいコンクリートに落ち、ピンクと白のスニーカーに飛び散っている。
ポタッ……ポタッ ポタッ
突然、そよ風が肌を撫でるのを感じ、その後首筋に熱を感じた。同時に、賑やかな通りの音が耳に染み込んでくる。
視界の端では、黄色い壁紙が徐々に消え始めた。
ケシは集中力を保とうとした。何か少しでも心に留めようと。しかしすぐに、何を心に留めようとしていたのかさえ思い出せなくなった。
車?自転車のスポーク?
目を閉じ、まぶた越しに太陽を見つめた。
「スパイス入りコーラと、スパイス入りクリームコーラのお客様!」
ついに、夏が来た。
ため息が漏れる。
新しい靴、誰も気づいてさえくれなかった。そして、それももう汚れて使えなくなってしまった。
「お客様?」
たまには、何か表面的なことで誰かに褒めてもらいたかった。
「お客様!」
ケシが振り返って窓を見ると、若い女性がストローがついた氷入りのコーラの袋をふたつ差し出している。
「お飲み物です」
「どうも!」
ケシは歩行者の間をすり抜け、混雑した歩道の横のガードレールに寄りかかっている青年の元に駆け寄った。青年の指からは大きな買い物袋がふたつぶら下がっている。
「いらないの?」
青年が首を横に振った。
「甘すぎる」
ケシは顔をしかめた。
「そんなこと言ってる俺かっけー、とか思ってるんでしょ」
ふたりは商店街を歩き出し、ケシはストローを口元に運んだ。冷たい飲み物が舌の上でパチパチと弾けて喉を通り過ぎる。ケシは満足げに息を吐き出した。
「めっちゃおいしい!スパイスだかなんだか知らないやつが効いてる!」
すぐにもう片方の飲み物も口にした。
「うーん!!こっちもおいしい!ほんとにいらないの?」
「節約した方がいいんじゃない」
ケシは眉をひそめると、どうでもいいと言った感じで視線を移した。
「何のために?」
「……本当にふたつも必要なのか?」
ケシはそれぞれの手に握られた炭酸の袋を見下ろした。
「選択を間違えたなーって気分になるのがイヤなんだよね」
⋆ ⋆ ⋆
プシュー
レンが扉をくぐり、司令室へと足を踏み入れた。疲れは完全に吹き飛び、体中を電流が巡っていた。
ミッションはまだ終わっていない。エミを元に戻すまで休むことなどできなかった。
「ユキ。エミの容体は?」
ユキはブランケットを肩から羽織り、コーヒーマグに両手を添えた状態で自分のコンソールに座っていた。
「司令官。現在N4に戻り、容体は安定。要観察中です」
レンが目を細めた。
──なんであんなにくつろいでいるんだろう?
「やっと自分自身を罰するのをやめたのかい?」
レンが振り返ると、アカシがアツの肩越しに身を乗り出し、ホロディスプレイをじっと見つめている。
レンは答えなかった。
「化神ケシ?」
アカシが割り込んだ。
「アツがちょうどプロフィールを見せてくれていた。なかなか面白いやつだ」
アカシが振り返り、湯気の立つ紙コップを差し出した。
「コーヒーでもどうだ?」
レンが詮索するような目つきでアカシを見た。
「いらない」
アカシは肩をすくめ、紙コップの縁に息を吹きかけた。そして空になったアツのマグカップを持ち上げると、ふらりと立ち去った。
「家出少年です」
アツの言葉にレンの注意が再び引き戻された。アツが話を続け、レンは肩越しに身を乗り出した。
「家族なし。少なくとも、現在連絡を取っている者はいません」
アツがケシのケータイやSNS上の写真やメッセージを念入りに調べる様子をレンは眺めた。
「学歴、職歴、共になし。社会的関与がほぼありません」
アツが椅子にもたれかかった。
「我々は、ある意味運が良かったようです」
「つまり、彼がいなくなったことに気づく者は誰もいない」
「その通り」
レンが視線を床に落とす。
「何だか……」
アカシがアツのマグカップをコースターの上においた。いつものように、中にはコーヒー用クリームだけが入っている。
「あ、ありがとう」
「……様々な意味で、彼のケースはエミとよく似ている」
レンは淡い色の液体が揺れるのを見つめた。アツの飲み物か、薬か、それともアカシの言葉か。何が原因はわからなかったが、突然、吐き気が込み上げてきた。
「この少年の事情が何であれ、すでに消えているも同然だったというわけか」
アカシは自分の汚れたマグカップから一口飲むと、軽く首をかしげて息を吐いた。
「そして我々が、彼を見つけた」
ニューロコム回線上で、マモルが口を挟んだ。
【司令官。腹部手術は成功。命の危機を脱しました】
レンはケシのIDに写る目をじっと見つめた。
「運が良かったな」
⋆ ⋆ ⋆
手術室では、レーザーメスがケシの後頭部に切開を入れる様子をマモルが見守っていた。
【アイコア挿入の処置中です】
【よし。進捗を随時報告するように】
【はい、司令官】
手術用ロボットのアームが回転し、突起のついた手に変形した。その手には、直径1センチの透明なリングが握られている。数本の細い合成マイクロファイバーがリングの底から伸び、まるで死んだ蜘蛛の脚のようにきつく丸まっている。
鉗子により頭皮が切開部に沿って引き離されると、淡い三日月形の骨がむき出しになった。そこに突起の付いた手が、頭蓋骨にぴったりと密着するようにインプラントを挿入する。接触した瞬間リングが光り輝き、回転する虹色の光の輪へと変わった。透明なマイクロファイバーが展開し、皮膚の下で外側へと広がってゆく。
⋆ ⋆ ⋆
「あの女の子、お前が気づくまで30秒くらい呼んでたよ」
ケシは電車のつり革を引っ張り、自身の重みで体を前後に揺らした。青年はドアのそばに立ち、長椅子の仕切りにもたれかかっている。
「あの女の子って?」
答えはない。
「だから何?それが仕事でしょ?あの店うるさかったし」
しばらくの間、青年はただそこに立ち尽くし、窓の外を見つめていた。そして、かすれた声で呟く。
「そんな人生ってねぇよな」
ケシはそっけなく答えた。
「ごめん、何?聞こえない」
「どうしても選択を間違ってしまうことは、時々ある」
ケシは呆れた表情をした。
──やれやれ。またご機嫌ななめになってる。
青年は振り向き、ケシの肩越しを見つめた。
「エミ」
ケシは振り返って後ろを見た。
「すみませんね……」
ケシが素早く腰を引いて場所をあけると、老婆がよろよろと歩いてきて、空いている優先席に座った。
「おっと、ごめんなさい」
「どうやったらそんなに鈍感でいられるんだ?」
ケシは眉をひそめ、つり革をひねって背を向けた。
「知らない。まあ、それでもなんとかやれてると思うけど」
ケシは電車内の影をじっと見つめ、午後の光の中で影が伸びていく様子を眺めた。
「そんなこと言ってられるのも、不意を突かれて深刻な痛手を負うまでだ」
ケシの眉と上唇がぴくぴく動いた。
「どういう意味?」
青年は答えなかった。ケシは素早く青年に顔を向けた。
「何か悪いことが起きて欲しいと思ってるの?そこから教訓を学べるようにって?」
「声を抑えろよ」
青年が振り返り、周囲を見回した。ケシもそうしたが、その階段には他に誰もいなかった。枯れ葉が二人の間の地面を滑るように吹き渡った。
青年はタバコに火をつけ、両手をジャケットのポケットに突っ込んだ。
「お前にセンスがないから教えてやろうとしてるんだろ」
──また、あのくだらない言葉だ。
「センス、センスって。私のセンスに文句をつけるのはあんただけだよ。服のことも。話し方も。何を食べるかも。立つ場所まで!」
青年が再び、人目を気にしているかのように振り返った。ケシにはどうでも良かった。叫び、騒ぎを起こそうとした。そうすることが、唯一青年を困らせるかのように思えたから。
「すごくセンスいいね、って言われたことあるんだから!」
青年が嘲笑を漏らした。
「誰にだよ?あの男か?」
ケシはとぼけた。
「あの男?誰?」
「もういい。ケンカするつもりはねえ」
「ならケンカ売らないでよ!」
ケシは背を向けた。電灯がチカチカと点灯し、ぼんやりとした黄色い光が階段を照らした。コートを切り裂くような寒気に、思わず体が震えた。
「それに、あの人がいなかったら、間違いなく今頃あんたは路頭に迷っている。まぁ、でも、そうなってたら、あんたのそのイカれた言動にも少し説明がついたのかな!」
ケシはしかめっ面をして立ちつくした。その時、青年の声が左耳に届いた。
「俺が一緒に行かなかったことを怒ってるんだろ」
「だって、行くって言った」
ケシは、垂れ始めた鼻水をすすった。
「言ったでしょ。一人じゃ無理だって」
青年の返事は冷たく単調だった。
「付き添いが必要なんて、それは俺よりもお前の問題だろ」
ケシは嫌悪感に思わず振り返ると、青年が虚ろな表情でこちらを見つめ返していた。
「別に、俺が行こうが行かまいが、その人に分かるわけじゃねえんだから」
その言葉に空気が震えた。
ケシは彼の言葉が全身に響き渡るのを感じた。まるで音叉のように歯や内臓を震わせ、そして背後の紅葉をざわめかせながら吹き抜けていく。
それから耳鳴りがし、空気が肺から吸い出された。
視界の隅で閃光がちらつき、電灯の光がどんどん明るくなって、ついにほとんど何も見えなくなった。
ケシは青年の瞳を見つめ、必死に耐えようとした。
⋆ ⋆ ⋆
レンはアツのディスプレイ上でケシのプロフィールを確認していた。
レンの後ろでは、ユキがコンソールの所で突っ伏して、腕に頬を当てぼんやりと虚空を見つめている。大きくあくびをして目を閉じた瞬間、3Dホロディスプレイから神秘的な音が響いた。
驚いたユキは、ビクッと体を起こした。
ユキが倒れたと思い、レンは思わず振り返った。
そして何かを目にした。
「アカシ!」
⋆ ⋆ ⋆
エミが瞼を開けると、記憶していたままの姿の彼が、階段に立っていた。その言葉がまだ頭の中で響き渡っている。
喉の中にしこりを感じた。そして痛み。だがそれはすぐに怒りに変わった。エミは突然、階段を駆け下り始めた。
彼の声がエミを追って呼びかけた。
「待て!」
エミは、足元を見ずに二段飛ばしでただ走り続けた。氷のように冷たい空気が肺に入り込む。夜の闇にぼやける影のように、進み続けた。
──今まで彼に言われた言葉の中で、一番ひどい。
「エミ!」
必死に涙をこらえた。 一番下の段に着く前に、エミは両手で手すりを掴み、くるりと体を回転させた。
「どうしてこんなことするの!?」
「どんなことだよ?」
「脅し!!」
【佐々木司令官、アイコア挿入処置、完了】
歪み、雑音が混ざった奇妙な声が、空を波打つように響いた。
エミは凍りつき、怒りは混乱へと変わった。
「今の、聞こえた?」
彼は答えなかった。
【ああ。エミのシグネチャーが再び現れた】
「まただ。聞こえないの?」
エミが頭上の暗い雲を見上げた。
【途中で意識を失ったようです。すみません】
【今から引き離す】
「ほら、横になれよ」
視線を下ろすと、彼がいた。公園に敷かれた毛布の上で、エミのそばに横たわっている。
「花火、見逃してるぞ」
振り返ると遠くに花火が見えた。
赤、黄、青、緑色が大きく噴出し、街のスカイライン上に燃え上がった。
「綺麗……」
さっきまで何か気がかりなことがあったのに、それが何だったか思い出せない。
しばらくの間、エミはただそこに座り、その感覚に浸った。
こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
自分の未来はまだまだこれからだという気持ち。あらゆる可能性が広がり、まだ迎えていない夜が無数に存在しているということ。
「またあの感覚だ」
青年が前をじっと見つめた。その瞳には火花が散っている。
「重くのしかかる感じ」
こんなとき、彼はまるで迷子の子どものようだとエミは思った。エミはゆっくりと横になり、彼の脇に頭を預けた。
「ねえ、そういう時、どうしたらいいか知ってる?」
エミは自分の髪が彼の頬の温かさに押しつけられるのを感じた。
「何だよ?」
エミは背後から青年の両手を包み込み、指を絡めながら後ろへ引き寄せた。
そして深く息を吸い込み、二人の手を押し出した。
「プッッッッッシュ」
その時、夜空が歪み、伸び始めた。
星がひとつずつ、宇宙にある一つの点へと素早く戻って行く。
そして、ゆっくりと、世界全体がそれに続いた。エミの耳にざあっと音が響き、続いて轟音が鳴り響いた。東京に残っている光、影、音、そして魂が、いっせいに天へと流れ込んだ。
青年が告げた言葉が、エミの耳にはほとんど届かなかった。
「あとどれくらい耐えられるか、分からない」