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 ケシは淡い光の中で影が動くのを見つめていた。


 どれだけの時間、見つめていたのだろう。思い出せなかった。


 自分がどこにいるかも。


 どうやってこの場所に来たのかも。


 断片的な記憶はあったが、確かなものは何もなかった。


 それなのに、心は妙に落ち着Qいていた。


 普段、頭の中は不愉快な思考で埋め尽くされているのに……。


 その真っ白な部屋は、空っぽで滑らかだった。壁に投影された、実在しない風に揺れる木の枝の影以外、目を引くものは何もない。


 自分の呼吸の音以外は完全な静寂で、耳をすますと、心臓の鼓動が聞こえた。


 ケシは顔を傾け天井をじっと見つめた。


 頭の上では、雲ひとつない爽やかな空が長方形に切り取られていた。


 ……ただその場所に横たわっているだけで、心地よかった。



 ⋆ ⋆ ⋆



「目を覚ましたからには決めなければならない」


 アカシは椅子にもたれかかり、片足を机の上に載せた。


「彼の処遇を」


 レンはオフィスの奥の壁にもたれかかり、ユキがワークステーション横の梯子を不器用に登り、泡立つ洗剤を噴射して掃除する様子を窓越しに見ていた。


 眩しい光が目の奥の鈍痛を悪化させ、アカシが無知を装っていることがますます腹立たしく感じられた。


「愚問だな。適齢だし、家族もいない。感情的や社会的なつながりも皆無……」


 レンは途中、言葉を途切れさせ、空の紙コップを手の中で回しながら付け加えた。


「まさに理想的な人材だ」


 そして目を細めた。 何度もユキに石鹸とお湯を使うよう言ったのに。スプレーだと跡が残るのだ。


 アカシがゆっくりと頷いた。


「……まぁ、訓練に失敗すればそれで問題解決というわけか」


 アカシは考え込むように下唇を突き出し、片足で椅子をくるくると回した。


「もちろん……エミの問題は残るが」


 レンの眉がピクッと動いた。


 ──もうひとつの頭痛の種。


「確かに。二人のシグネチャーが融合した時に何が起きたのか、何に晒されたのか、まだ分かっていない。 DEEPの機密情報が一般に漏れでもすれば、我々はすぐに活動停止に追い込まれる」


 ユキはブラシで泡をゴシゴシこすりながら、頭を上下に揺らし、口パクで歌を口ずさんでいる。レンは上唇を噛んだ。


 あれだと、塗装に傷がついてしまう。


 アカシは首を捻って窓の外を見ると、にやにやと笑った。


「……私はその話をしているんじゃない」


 アカシが急に真剣な表情になって振り返った。


「あまりにも長い間、エミはひとりでやってきた。それが徐々に彼女を蝕み始めている。それは君も感じているはずだ」


 実際、どれくらいの時が過ぎたのだろう?レンは思った。地下のこの場所では、もはや時間は同じように流れていなかった。


 自然光が無いせいだ。だから、物差しになるものが何もなかった。レンにとっては、ただひたすら、長い一日が続いているようだった。


 一日、数ヶ月、数年……昇進したその時から、レンは新たなアイオンをチームに迎えることを先延ばしにしていた。


 進んで引き受けてくれる人、ましてや任務に何度も何度も耐えられる人を見つけることは、容易ではなかった。


 ID移植は身体だけでなく精神にも負担がかかる。それに耐えられるであろう人物像はなんとなく分かっていた。それでも、実際に飛び込んでみるまでは、確実に知る術はなかった。


 アカシによれば、15歳から22歳までが最適期とのことだった。それ以下は同化のリスクが跳ね上がり、以上は引き離した後の精神崩壊が心配された。15歳〜22歳は柔軟で順応性がある。だがレンは、18歳未満の使用は拒否していた。


 エミはレンがオペレーションチーフに就任する前、16歳の時にプロジェクトに加わった。現在19歳。洪水以降、唯一のアイオンだ。


 レンは長く疲れたため息をついた。まぶたがズキズキと痛んでいる。


「エミへの負担が大き過ぎることは、分かっている」


「きちんと検査するまで、任務をこれ以上任せないことを推奨する」


 レンはぼんやりと虚空を見つめた。焦点が合わなくなり、ユキの姿がぼけ始める。


「司令官」


 レンが振り返ると、アカシが安心させるようなしっかりとした眼差しで見つめていた。


「エミを取り戻せた。そしてその過程でもう一人手にいれた」


 アカシは両足を地面にしっかり踏みしめ、前かがみになった。


「まだマシな方じゃないか」


 レンは紙コップを握りつぶし、同じような紙コップと服用済みの薬のパックが山積みになっているゴミ箱に投げ込んだ。


 アカシの前を通り過ぎ、ドアに向かいながら、レンは呟いた。


「何も欠けずに戻って来れたのであれば……」



 ⋆ ⋆ ⋆



「よし。では、生まれた場所は?」


 エミはベッドの端に前のめりに座り、肘を膝に当て、指の間で小さな温かい金属片を転がしている。向かい側には鮮やかな赤のスクラブを着たマモルがいて、目線を素早く動かしながらエミの回答を自身のアイコアが生成したフォームに入力している。


「東京」


 エミが淡々と答えた。


 こんな様子が3日間続き、エミは頭がおかしくなりそうだった。


「もっと詳しく」


「稲城市」


 いつもならとっくに逃げ出しているところだ。だがあの事件以来、エミは監禁状態に置かれていた。本部に閉じ込められ、ずっと部屋でビデオを見たり、寝たり、くだらない課金を沢山しても全然おもしろくないガーデニングのゲームをしたりしていた。


 ──ふん。


「エミの部屋」は、医務室にあるガラス張りの檻に過ぎなかった。


 ベッドルーム風に飾り立てたところで、それが本物になるわけではない。それに、中に置かれたものの半分は、エミの祖母の家から持ってきたガラクタだった。


 この場所は、むしろ博物館のようだった。


 ──鳥海エミ博物館……。


 エミは鼻からため息をつき、指先で滑らかな塊を触った。


「母親の血液型は?」


「さあね」


 マモルが疑いの目を向けた。


「忘れた」


 その類のものを持たずにいなくなったのには、それなりの理由があった……。


「エミ……」


「何か新しいこと言えないの?同じ質問に答えるの、うんざりなんだけど」


「それじゃそもそもの目的を達成できないだろ」


 エミは視線を自分のショートパンツへと移した。黒。つまらない。シャツも同じ。靴下も。タオルも。水着も。歯磨き粉も。


 ──つまらない。


 何もかもが、つまらなかった。


 エミは喉の奥で低く口ずさみ始めた。それが次第に唸り声へと変わり、次第に大きくなり、やがて歯を食いしばってほぼヨーデルに近い声へと変わった。顔を手で覆い、頭をグルグルと回す。


「エミ」


 エミが止まった。視線がマモルの頬にあるほくろへと動く。じっと見つめられていることに気づき、マモルは突然気まずそうな様子を見せた。


「ねぇ、髪切った?」


 不意をつかれたマモルは、身を起こし、照れくさそうに笑いながら、ジェルで固めた額を囲む前髪を指で整えた。


「今日は分け目を反対側にしたんだ。どうかな?」


 エミはニヤリと笑った。


 ──単純すぎる。


「伸ばした方がいいと思う。ロング。肩よりも長いくらいに」


 マモルは静かに笑った。


「司令官は気に入らないだろうな」


 いつもしっかり身なりを整えて、かなり必死だ。


 エミは、時々マモルを気の毒に思った。


 時々、だが。


「えへん」


 マモルは再び集中すると、堅い口調に戻った。


「そう。母親の血液型を聞いていたところだった」


「AB」


「あと3問。もうじき終わる。では母方の祖母の名前は?」


 エミは床へ足を降ろした。


「ナツミ」


「誕生日の6カ月前の次の日は?」


「6月21日」


「初めての——]


「西荻」


 エミは頬を赤らめ、視線を足元に下ろした。


「こんなことも話しちゃったなんて……」


 マモルは残りの回答をフォームに入力した。


「よし、次に進もう」



 ⋆ ⋆ ⋆



 ケシは虚無を見つめている。


 ゆっくりと記憶が戻り始めていた。平域を歩いた時のことは、ほぼ全てつなぎ合わせることができた。


 でも、なぜベッドにいるのか。


 なぜ患者用の黒いガウンを着ているのか。


 そしてなぜ右腕に点滴が付けられているのか。


 点滴はできる限り見ないようにしていた。そうしないと吐き気が込み上げてくるからだ。


 目を細めて空を見上げると、視界の隅に何かが映った。小さな時計と、雲と、人のシルエットの透明なアイコンだ。それぞれのアイコンには斜線が引かれていた。


 ケシは突然の気づきに目を見開いた。


 言葉を発する間もなく、誰かの声が右耳に届いた。


「化神ケシくん」


 驚いて振り返ると、黒い服を着た女がそばに立っていた。


「クッ!」


 激しい痛みが腹部に走り、起き上がることができない。ケシは脇腹を押さえ、再びベッドに倒れ込んだ。


 その瞬間、腹部に温もりが広がり、痛みが消え去った。


 女は、横たわり呼吸を整えているケシを見下ろした。その表情は険しい。


「説明が必要のようですね」

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